清 澤  満さん

きよさわ・みつる/1956年生まれ。大学卒業後、北海道庁に入庁、以来、道職員として社会福祉と児童福祉行政を一筋に歩む。帯広児童相談所、中央児童相談所長を務め、2015年に退職。北海道社会福祉事業団を経て2018年に北海道家庭学校副校長、2020年に第10代校長に就任。子どもたちと共に暮らし、寄り添い励ましながら職員とともに自立支援の取り組みに邁進する日々。

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一路到白頭(いちろはくとうにいたる)

遠軽町の市街地から北西へ4キロ余り、学校の正門に立つと凛とした初冬の冷気が全身を包む。北海道家庭学校は1914(大正3)年に、日本の社会福祉の先駆者であり感化教育の実践者として知られる留岡幸助により、東京巣鴨の家庭学校(当時)の分校として創立された。

学校は「森の学校」とも呼ばれ、東京ドームの93倍にもなる439haの広大な校地に校舎や寮舎、住舎、畜舎などが点在する。現在は15名の少年が職員とともに暮らし、時には美しく、時には厳しい自然のなかで生活・学習・作業を通じた自立支援が行われている。

礼拝堂の尖塔が冬の冷気を満たした青空に突き刺さるような12月、10代目校長清澤 満さんを訪ねた。

北の果て、オホーツクの未開の原野に求めた理想郷


東京家庭学校に活動の拠点をおいていた留岡幸助は、50歳を区切りに未開の北の大地「オホーツク」で理想の新農村建設と感化事業に取り組み、70歳で亡くなるまで残された後半生を奉げた。

 

清澤さん 校祖留岡幸助先生は18歳でキリスト教の洗礼を受け、同志社英学校で神学を学び牧師となり、1891(明治24)年に北海道の空知集治監の教誨師となりました。全国を遍く行脚した先生が、南ではなく北の地に新たに家庭学校を創設し新農村建設を目指されたのは、人は厳しい自然の中でこそ、より良く、より強く育つという信念をお持ちになり、遠軽の地が正にマッチしていたのでしょう。空知集治監で監獄改良の重要性を認識した先生は、後に米国に留学し学ばれますが、先生の座右の銘「一路到白頭」をみるに、先生には天命として、その路(みち)が用意されていたのではと感じるところがあります。

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歌人大町桂月は、幸助を訪ね『あなたとう(尊う)平和の山に湧き出でて 人の命をすくう真清水』という歌を残しているが、「家庭」の名を学校に冠した幸助の理念は、百年を過ぎた今なお、普遍的な水脈をなしオホーツクの地に流れている。

清澤さん 今も、家庭学校を少年院と同じと勘違いされている方がいますが、ここには閉ざされた門や塀もなく、建物も歴史的な資料を収蔵している博物館以外は鍵が掛かっていません。それを知っている遠軽の町民の方は、四季折々の自然を楽しまれているようです。家庭学校はキリスト教精神を基本に据え、生徒が職員と共に生活し学ぶ「家庭であり、学校」です。地元遠軽町民の皆さんに愛され、誇りとされていることを感じます。全国唯一の社会福祉法人が経営する男子児童自立支援施設として、子どもたちと職員夫婦が一つ屋根の下で生活をする「小舎夫婦制」の伝統を今も大切にしています。

流汗悟道と三能主義

開校の翌年、乳牛1頭、種牛1頭の飼育から始まった酪農は、オホーツク酪農の草分け、今は40頭余が飼育されている。自然と向き合い、「能(よ)く働き、能く食べ、能く眠らしむる」。子どもたちは森や牛や野菜を育て、味噌やバターを作り、割った薪で風呂を沸かし、毎日の生活で必要な働きに汗を流す。

清澤さん 2009(平成21)年に公教育が導入され、施設内分校として「望の岡分校」が開設されました。午前中は本館で学習し、午後は週3日作業班学習を行っています。作業班は現在、酪農・山林・園芸・蔬菜・校内管理の5班です。酪農は、バター・チーズの製造販売を始めました。また、日曜日は礼拝堂に集い心を静めます。

近年は発達障害や愛着障害のある子どもの入所が増えており、個別の支援が大切になっています。様々な課題を抱えた子ども達ですが、児童の権利擁護が質される今日、子ども達を「保護の対象」から「権利の主体」として認められた存在としてしっかり受け止めなければなりません。私も職員達も常にそのことを意識して支援に当たっています。

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第5代校長谷 昌恒は、「私たちは豊かな包容力を持った広い胸の人に抱かれると、心から安堵した思いになります」。また、「教育の基本は祈りだということです。目に見えないものに対する恐れの思い。今あって、やがて遠い将来に向かって命が流れていく。私たちはそういう目に見えない長い命の流れのひとこまとして、ここにあるのです」と、語っている。家庭学校が、このオホーツクの地にある意味や意義は、この言葉に全て尽くされていないだろうか。

\この記事を書いた人/

古谷一夫/訓子府町生まれ。大阪で学生時代を過ごし、1976年に社会教育主事として清里町役場に勤務。40歳で教育行政を離れ、以後、企画、財政、総務などの地方行政に携わり退職。オホーツク・テロワール創立メンバーで、現在は理事・HARU(ハル)共同発行人。

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