​南川 保則さん

みなみかわ・やすのり|1954年、湧別町生まれ。大学進学するも、俳優をめざし故・俳優小沢昭ーが主宰する「芸能座」の研究生に。1989年、父の他界を機に家業の麺づくりを引継ぎ「みなみかわ製麺」2代目。2000年、「オホーツクの塩」の生産開始。2006年、終戦後に祖父が始め昭和46年まで続いた劇場「湧楽座」を再興。不定期ながら「湧楽座まつり」を催し、自らも芸人・シンガーソングライターとして舞台に上る。多彩な活動を続ける昭和人間である。

-芸人気質と職人気質-それは祖父と湧別の熱がはぐくんだ

多彩である。YouTubeでは「オホーツク太郎」と検索すれば、そこには演歌歌手としての姿があり、作講・作曲「みなみかわ保則」の名前がクレジットされます。ビジネスマンの他に落語家、講談師、シンガーソングライターの顔を持つ南川さん。しかも、その多彩さには一本の心棒が
通っている気がします。北海道の住人とすれは、「オホーツクの塩」を作っている(株)つららの社長さんと言えば多くの人が合点をするでしよう。あるいは「同じ人」とは思わなくとも、戦後から高度成長期の湧別を賑わせた「湧楽座」を再興させた人、として合点する人も多いはすです。


生き方の原点は「湧楽座」にあった

―――本当に多彩な取組みをなされていますね。その南川さんの個性を生んだ背景が何かを知りたくて今日はお尋ねしました

南川さん:「湧楽座」のことから話を始めましようか。湧楽座は祖父の保ーが昭和21年、終戦から間を置かず建てた劇場です。浜の漁の間や盆暮れ正月には旅芝居や浪曲、津軽三味線の一座が三月と空けず来て、映画は毎日上映していました。劇場を閉じたのが昭和46年、私は生まれた時か
ら中学校卒業まで、毎日この劇場で過ごしました。映画は白黒から総天然色、シネマスコープへと変わる激しい変遷の時代でした。映画は常に新しいものを作リ時代を反映する、「クリエイテイプだ!」と思いました。それともう一つ感じていたのは「わき役のすばらしさ」。アランドロンや加山雄三にはない、一人一人の役者の凄さです。私はそんな役者になりたかった。それで脇役の名手、故・小沢昭ーの「芸能座」の研修生になりました。しかし、そこから売れる役者になることは東大に入る以上の狭き門でした。思えば、戦後復興から高度成長の時代で新しいものと旧いもの、華やかさと哀しみの入り混じった時代でした。当時の湧楽座に来る人々にも、活力と喧騒、時には酔っての諍いもありました。

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それは矛盾ではなく「時代の雰囲気」、湧別という街の色や匂いとして、南川少年の心と身体に深く染み込まれたのでしょう。

"混沌と活力"その源となった湧別のテロワール

―――湧別は湧別原野・内陸開拓の起点、他の町にない独特の繁栄や文化があったのでないですか

南川さん:あのガンダムの作者として有名で、この地との縁も深い安彦良和さんが「王道の狗」というコミックで画いています。湧別が舞台となり、湧別原野開拓の相・徳弘正輝や白滝に入植し合気道を生んだ植芝盛平が登場します。湧別開拓は湧別川を遡って北大雪の麓まで奥深く拓いていきますが、それは自生薄荷発見とその後発展の契機ともなります。後に世界一となる「北見薄荷」の発祥はここ湧別からです。河口の「浜市街」は江戸時代からの漁場でもあリ、既に街としての賑わいがありましたが、まずは浜から内陸に入った「四号線市街」、今の農協のある辺りが紋別や芭露・計呂地に向かう交通の要衝となり発展します。そして、薄荷栽培が最も盛んとなる上芭露には薄荷の取引場もできました。全国から薄荷の買い付けが来てあちこちに旅館や料亭が並び、その賑わいは「とんでもないことになった」と町史に書かれる程だったようです。更にその後の発展の入口となる鉄道の駅をどこに置くかでは対立もあったのです。最初の軽便鉄道線は浜まで来ましたが、国鉄の名寄線は結局中湧別から北へ折れました。人々の思惑が交錯したのです。劇場も最初は漁業組合の横に建ったけれど、その後は四号線市街、上湧別、芭露、上芭露にできるわけです。最盛期の上湧別には3館もありました。開拓はこの河口から湧別川をさかのぼリます。上湧別村、遠軽村、丸瀬布村そして白滝村と次々と分村が進むのを大きく支えたのが薄荷でした。内陸へ人々を送リ出した「浜市街」。薄荷景気や交通の要衝として強い経済力を持った「上芭露」、「四号線市街」や「上湧別市街」。それぞれに住む人々の来歴や思いや文化の違いが時には反目や対抗も生み出しました。

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そんな混沌と活力の時代の中で湧楽座。衰えを知らない南川さんのバイタリティを培ったのが少年時代のこの場所です。南川さんは「湧楽座は私の生き方の原点。命であり宝です。」と言い切ります。

祖父へと遡る、クリエイティブである気概

―――「オホーツクの塩」を作ろうと思ったきっかけは何だったのですか

南川さん:きっかけは味噌作りです。大正3年から歴代守り続けてきた味噌作りは南川家にとっての柱です。天然釀造の木桶は今も使っています。この木桶で100%北海道産原料の味噌を仕込みたかったのですが道産の塩がなかった。「なければ自分で作ればよい」と思いました。後押ししたのは祖父がいつも言っていた言葉でした。「現状にとどまるな、常に新しいことを考えろ」です。クリエイティブであること、他人のやらないこと、独自性を持てということです。それと祖
父自身、戦中戦後の塩不足時代に浜で窯を焚き塩を作っていましたから、「自分で作れる」と思いました。そして私は、海水をある程度の濃度にまで煮詰める大事な工程に独自の製法を考えました。そのためには、今までにない製造機械も必要でした。試作一号機は見事に失敗です。多額の開発費が消えましたが、そのことでメーカーも開発に本腰を入れてくれ、それは見事に完成しました。できあがった塩の評価も高く、北海道の土産品となり、カルビー社の「じゃがポッ
クル」にも使っていただき、今では年問約50トンの製造力にまでなリました。


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「オホーツクの塩」も「湧楽座の再興」も、祖父の起こした事業を直接継承するものではありません。しかし、南川さんが祖父の事業や湧楽座での日々を通して学んだことは「常にクリエイティブであること、誰に与するのでもない独自性」の大切さです。その気概こそが湧別という土地が生んだ歴史文化や日常に深く根ざしていることを理解できた気がします。土地あるいは地域が持つ力、地勢や気候、土壌、そこから生まれる歴史や文化や生活様式。それをテロワールと呼ぶなら、テロワールが人々を生み、テロワールはその人々を通じて多様に私たちの前に出現するのかもしれません。南川さんの「多彩さ」の抜き差しがたい理由がそこにある気がします。

\この記事を書いた人/

長南進一|北見市生まれ、大学から27年間を東京で過ごし、2000年にUターン。オホーツクの素晴らしさに改めて感動し、オホーツクの地域おこしに奔走。明日のオホーツクラボラトリー代表。

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